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ー第4章ー 2.フランソワーズ・サガン

Author: 土浦タカ
last update publish date: 2026-09-21 21:34:30

イレヱヌはこの件を誰にも言うつもりは無かった。たとえエドワアドであろうとジャンヌであろうと。ましてやセシルには。あんなことがあったなどと口にすることすら屈辱的だ。そして口にしようとするだけでまた全身を蛆が這うようなおぞましい不快感を思い出してしまいそうだからだ。

「お前、モデルしてるんだってな」明くる日、サン=ポウルのビュッフェでシリルにそう声をかけられる。「うん」言葉少なにイレヱヌは返答した。なるべく考えたくは無い。この日はセシルが仏蘭西で仕事をしていた。

「大丈夫なのかよ」「大丈夫って何が」「ファッション業界がえげつない実態なことくらいは俺でも知ってるぞ」シリルの方を見ると、真剣な顔でイレヱヌの事を見詰めている。この表情で見詰められるのは“シラノ・ド・ベルジュラック”の舞台終わり以来かもしれない。

「大丈夫よ」そう言ってイレヱヌは微笑わら《わら》いかけた。「何かあったら絶対に誰かに言えよ。一人で抱え込むなよ」「分かってる。ありがとう」其処までシリルに心配されていたとは思わなかった。シリルが此れ程心配しているなら、両親やセシルにはもっとかもしれない。イレヱヌは周りからどう思われているのか心配になってしまった。それともシリルはまさか何かに勘づいているのだろうか、その考えが頭を過り、総毛立つ。シリルが若し勘づいてしまったとしたら、セシルに気付かれてしまうのも時間の問題だと思った。あんなこと恋人には世界一気付かれたくはない。

次の日、セシルがイレヱヌの部屋にやってきた。「久しぶりだね。イレヱヌ」気のせいか表情が堅い気がする。「久しぶりセシル。お仕事はどうだった?」イレヱヌはわざと明るい声を出した。(セシルに心配をさせないように振る舞おう)自分に言い聞かせ、紅茶を淹れようとする。

「イレヱヌ、“シェ・レジーヌ”の事どうして僕に言ってくれなかったの?」首筋から氷の塊を滑り落とされたような錯覚に陥る。「何の事……」「彼処はフランソワーズやフランソワーズの友達が良く利用してるんだよ」頭が真っ白になる。そういえば“パリ・マッチ”には頻繁にサガンとブリジット・バルドーがディスコやカジノで夜遊びする姿が載っていた。「僕は、そんなに頼りない存在なの?」はっとしてセシルの方を見ると、悲しそうな眼をしていた。ふう、と息を吐き出すと「どうしても知られたくなかったの…」とようやっと声を絞り出す。あの日のことは自分の中で認める事さえ出来なかった。

「お願いだからちゃんと教えて。僕は自分の知らないところでイレヱヌに泣かれたくないよ」

「うん……」声がみっともなく震える。鼻の奥がツンと痛み、顔に熱が集まる。(まずい。泣いてしまう)イレヱヌはセシルから顔を背けた。こんな酷い姿を見られるのは耐えられない。セシルがそっとイレヱヌに腕を回し優しい熱に包み込まれる。気を抜くと泪を溢してしまいそうだった。眼に力を入れて身体を強張らせて何とか堪えようとする。セシルはイレヱヌの様子に苦笑した。

「僕の前くらい、我慢するのは止めてよイレヱヌ」セシルはイレヱヌの艶やかな絹髪をそっと撫でた。イレヱヌの眼は耀が反射する漣のように煌めく。泪が黒蝶貝から転がり落ちる真珠のようにぽろりと零れ落ちた。とうとう堪えきれなくなってしまった。

(最悪だセ デギュラス)甘く苦い思いが胸の内に広がっていくのを感じた。セシルはふふっと笑ってそっと泪を唇で拭った。「我慢しないでいいよ。イレヱヌの泣いた顔すごく可哀いから」イレヱヌは此の場合は怒るべきか笑うべきか分からなかった。

「フランソワーズがイレヱヌの事凄く心配していたんだ。今度の夏休みに会いに行かない?」セシルが寝台ベッドの中でイレヱヌに訊いてきた。「えっサガンが?」イレヱヌは驚いた。サガンからすれば友人の恋人にすぎない自分の事をそんなに気に止めているとは思わなかった。「一応は何もされていないからそんなに心配しなくても良いのに……」とぼそりと言うとセシルは「“何もされてない”なんて事は無いでしょ。イレヱヌが泣いてたってフランソワーズが心配してたよ」とぶすっとした声でそう言った。彼処は暗い室内だったのに其処まではっきりと見えていたのか、イレヱヌは赤面した。きっと相当みっともない姿だっただろう。

「イレヱヌは僕のなのに…。僕の知らない所で何かされていたなんて……」セシルはイレヱヌをきつく抱き締めながらそう呟いた。顔を裸の胸元に埋めているため擽ったい。その言い分にやや不満を覚え「あたしはセシルのものでも無いよ」と言いながらセシルを引き剥がそうとする。セシルはむっとして「何言ってるの。イレヱヌは僕のだよ」と断言する。そのまま身体をひっくり返され、寝台ベッドに押し付けられた。しまった、と思ったが遅かった。そのまま祭壇の上に供えられた贄となり、セシルが飢えを充たすまで何度も啄まれた。

「ねえイレヱヌ、僕の物だって言って」「僕だけの物だってそう言って」「僕が欲しいってちゃんと言って」何度も同じことをイレヱヌに覆い被さって懇願する。母親の乳房を懸命に吸おうとする赤ん坊の様だった。自分は責められているのか、それとも自分がセシルを責めているのか思考が渾然一体となり理解わからなくなっていった。其に対して自分が何と言ったかイレヱヌは憶えてはいない。憶えていない、事にした。

夏休みが来て、イレヱヌはセシルと一緒に本当にサガンの別荘に遊びに行くことになった。

「久しぶりね、イレヱヌ……」アパルトマンに彼女の愛車ジャガー・XK140カブリオレが止まった。サガンは恥じらいを含んだ微笑わらいを浮かべてイレヱヌに吃りながら挨拶をする。何処か臆病さを滲ませた、か弱い少女のようなサガンをイレヱヌは好ましく感じた。

「お久しぶりフランソワーズ、お招きありがとう」イレヱヌも微笑わらい返す。お互いの顔を近づけビスをする。頬を近づけるとゲランのルール・ブルーのネロリ、薔薇の馨りが鼻を擽った。優しい馨りが長期休暇ヴァカンスの訪れをイレヱヌに伝えてきた。

サガンは裸足で車のアクセルを思い切り踏んでノルマンディーへのドライブが始まった。まるでF1レーサーの選手のような運転をする。サガンは一九五七年に事故を起こしたことが脳裏を過り、イレヱヌは心の中で十字を切った。イレヱヌとは対称的にセシルは平然としていた。其れ処かイレヱヌの青ざめて座席帯シイトベルトを手で握り締めるイレヱヌの滑稽な姿に笑いを堪えていた。

ジャガーはマント=ラ=ジョリイ、エルブフ、ブーズヴィルを走って牧草地や森の下草を突き抜ける。

ときに道が狭まり、蔦の天井の下を通るときもある。陽光が木々の葉の間からちらりと見え隠れして煌めいた。サガンはフロント硝子に反射する耀の眩しさに、窗から外に顔を出して運転をした。シュマン・デ・クロまで来ると青灰色フォグブルウの屋根のル・マノワール・デュ・ブルイユが見えてくる。橅、栃ノ木マロニエ、菩提樹に縁取られ、二本の蓮華木のそびえ立つ長い並木道の向こうに見えた。

ル・マノワール・デュ・ブルイユは、十八世紀のノルマン様式の邸宅で、カルヴァドス 県のオンフルウル港を見下ろす丘の上、エクモーヴィル村から数百メートル離れたバルヌヴィル・ラ・ベルトラン村の並木道の突き当たりに堂々と建っていた 。

「素敵……」ほう、と息を吐き言葉を感嘆を漏らした。セシルがふふっと微笑わらって「イレヱヌは絶対に此処が好きになると思ったよ」と何故か少し得意げに言った。サガンはそんなセシルの様子に「もう、セシルったら完全に自分の別荘だと思ってるのね!」とからかった。

此処はノルマンディーではあるものの、英仏海峡の白い砂浜は此処から曲がりくねった道を通ってかなり先まで行かなければならないらしい。巴里にアパルトマンのあるイレヱヌは、実はノルマンディーに来るのは今回が初めての事だ。海は好きだが、訪れるのは尼斯ニイスやサン=トロペだった。そしてサン=トロペは“素直な悪女”のヒットにより観光客だらけの土地になって、すっかり魅力を失っている。久しぶりに海で遊ぶことに浮き足だった。そして其処から十二キロほど離れた所に“ノルマンディー海岸の女王”と謳われる港、ホテル、ヴィラ、カジノを擁するドーヴィルがイレヱヌ達を待ち構えていた。

街を歩いているとアンヌに偶然遭遇したのでイレヱヌとセシルは驚いた。其れはアンヌも同じだったようだ。そしてサガンも一緒に居るということにアンヌは更に驚き興奮を隠せなかった。

「驚いた…。二人がサガンとお友達だったなんて……」とアンヌは感嘆していた。普段は真面目で品行方正なアンヌの滅多に見られない姿に思わず笑ってしまう。「あたしも驚いたよ。アンヌに会えるとは思わなかった」とイレヱヌが笑うと、「私以外も遭遇するかもよ?レナートが此処にはシリルやヘンリイも長期休暇ヴァカンスで利用するって言っていたし」と笑って答える。そんな会話をする程度にはレナートと仲良くなった事と、シリル達も居るかもしれないことにイレヱヌは驚き、セシルはやや不快そうに顔をしかめた。

セシルは態々ノルマンディーまで来たというのに海に行くことなく、ヴィラを改装した高級ブティックの通りに夢中になっていた。「そんなもの巴里でも買えるのに…」と思わずイレヱヌが溢すと「良いの!僕は今買いたいんだから!」と言い張る。二人の様子をサガンは面白そうに眺めていた。買い物には興味が無いため、イレヱヌは早々にブティックから離れた。但し巴里では見掛けないノルマンディー様式の並ぶメイン通りの光景はとても浪漫チックだと思ったため、其処は写真に納めた。ベンチに腰掛け軽くイラストと文章を記入するとサガンが「それって絵日記?」興味深そうに覗き込んだ。

イレヱヌは(フランソワーズに見られるのは流石に恥ずかしいな…)と思いつつも頷いた。サガンからすれば子供の落書き同然の内容だという自覚があるからだ。

しかしサガンは「素敵じゃない!これを読みたがる人は沢山いるわよ」と予想外の言葉を発する。イレヱヌはその予想外の言葉に「本当に?本当にそう思う?」と何度も確認してしまう。「勿論よ!私はお世辞なんて言わないわ」ふふっとサガンが微笑わらった。まじまじと見つめられることは苦手なのか、目許に僅かに緊張の走った微笑みを浮かべる。「でも、あたしはフランソワーズみたいに立派な文章を書ける訳じゃない」溜め息を一つつくと「あたしも書けたらいいのにな」という言葉がぽろりと口から溢れ落ちる。

そうだ。本当の望みはそれだ、と自分で自分の本心に気付かされる。本当は社長と女優の娘という目ではなく、只の動くマネキン人形でもなく、イレヱヌ・スチュワートという自分其の物を見てもらえるようなそんなものが自分は欲しかったのだ。「あら、私もしょっちゅうそう思ってるわよ」悪戯っぽくサガンは微笑わらった。イレヱヌも思わずふふっと微笑わらい返した。「でもフランソワーズ、あたしはもうモデルの道を歩いちゃったもの。今更その道を目指そうとするのは遅いわよ。フランソワーズのように昔から文章を書くのが上手だった訳でもないし」イレヱヌはふと現実を見つめてそう溢す。そうだ。目の前にいるのはフランソワーズ・サガンという特別な女性だ。自分とはそもそも子供の頃から違うのだ。そう自分に頭の中で言い聞かせていると「何言っているの。イレヱヌ」とサガンは真剣な、嗜めるような口調になる。

「生きることを学び直すのに年齢なんて関係ないわ。一生できることよ」

目の覚めるような思いだった。そんな風に考えた事はなかったが、確かに其れはそうだ。

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